(2002年8月8日の政治日記より抜粋)

さて、私は先日終わったばかりの前学期にゼミを四つ取っていたのですが、その中の二つのゼミで採用された文献があります。というか、私は在学中にこの文献を四回も読まされました。それは、E. H. カーという歴史学者兼国際政治学者の書いた古典、「歴史とは何か」です。

歴史とは面白い物で、膨大な史実が分かっていません。例えば、古代アテネの名も無き一市民の生い立ちなどに言及している文献はほぼ存在しません。これは考えてみれば当たり前のことで、名も無き一市民のことなど誰が知りたいと思うでしょうか?

つまり、歴史とは削られていくものです。膨大な史実から、必要と思われる史実のみを、その時その時に生きた歴史学者が選択し、極めて主観的に歴史を書くわけでございます。ここまでは別にいいのですが、カーはある重要な点に着目して、「歴史とは何か」の論証を進めました。それは、歴史学者が史実を主観的に選択する作業では無く、主観的に構築する作業です。

歴史はそのままでは歴史になりません。歴史の語り人が、彼が必要と思った史実を組み合わせ、歴史として語るとき、初めて歴史は歴史になります。そして、その組み合わせの結果出来上がる歴史は、まさしく歴史が書かれた時代により変化していったわけでございます。つまり、どういうことかといいますと、史実を選択する作業だけではなく、歴史を構築する作業そのものが、歴史の語り人の主観から逃れることができないのです。ランケという歴史学者がいい例で、彼の書く歴史はまさしく、フランスの力が衰え各国王制の終焉が近付くパラダイムシフトな時代を反映し、時代の価値観を反映する史料を批判した、史実のみを歴史として追い求めていくスタイルでした。歴史そのものが、歴史の語り人の時代的、社会的、個人的背景をベースとして作られます。よって、歴史記述そのものが歴史の一部を形作る、つまり歴史とは歴史学者と歴史との終わりなき対話である、というものがカーの最も強調したテーゼでした。

さて、私が、なぜ国際政治のクラスでカーを何回も読まされていたのかを理解するのには、長い時間を必要としました。当初は、俺は国際政治を学びにきたのであって、歴史の解説を読みたいのでは無いといった生意気なことも考えておりましたが、私が現実主義というものを理解すると同時に、全ての疑問が解けていきました。

現実主義の根本は、「無常」の精神です。何もかもが変化し、例えば今日の友が明日の敵になったり、今日の平和が突然破られるものです。しかし、私がこの時代のこの日に生きている限り、私は今日の時代背景を拠り所に、極めて主観的に世界を見ようとします。まさしくカーの指摘した、歴史を主観的に、その時代の価値観をベースに綴る歴史の語り人のように。

大学の教授陣が何回もカーを読ませたのは、それを自覚させるためでした。主観的になってしまうのは仕方がありませんが、(今日を含む)歴史の大きな流れを見失って、分析そのものを誤ってしまうことは、良き現実主義者が絶対に避けなければならないことなのでございます。

私が何を言いたいのか、率直に申し上げますと、例えば私たちは今アメリカの覇権の基に生きている為、これが永遠に続くであろうと思いがちです。しかし、歴史を大きな観点から捉えれば、アメリカの覇権がいつか終わりを迎えるということは、火を見るより明らかなのでございます。19世紀から20世紀初頭にかけてイギリス帝国の覇権が続いたとき、まさかこれが終焉を迎えると予想した人はどれほどいたでしょうか。古代ローマが潰れると、当時の一般市民が思っていたでしょうか。この世はすべて無常でございます。それはすなわち、今日の真実が明日の真実とは限らないからにほかならないからでございます。

上記の理由から、私が国際関係を語る際は、「アメリカ一極集中の時代がいつか終わる」という前提が存在します。いや、アメリカ首脳部はそれを完璧に理解しているからこそ、テロをわざと食らって戦争を起こし中央アジアに手を延ばしたり、イスラエルを切り捨てたりして、必死になって歴史の流れに逆らおうとしているのでございます。