この章では、20世紀最高の哲学者の一人として名高いアイザイア・バーリン卿(Sir Isaiah Berlin)のエッセイ「二つの自由の概念」を紹介しつつ、自由主義とは何かを論じたいと思う。バーリン卿によれば、肯定的自由と否定的自由は「一つの(自由という)概念の二つの解釈ではなく、二つの根本的に異なる、妥協不可能な生に対する取り組み方」である(Berlin, 166)。否定的自由は強制からの自由であり、肯定的自由は人生に対する強制を少なからず必要とする、何かをするための自由である。しかし、そのエッセイの終わりにおいて、バーリン卿は否定的自由が我々の社会にとって好ましいと議論する。以下では、否定的自由と肯定的自由の基本点、及びバーリン卿を彼の結論に導かせた、自由に対する様々な批判が述べられている。

否定的自由

バーリン卿は、否定的自由にとって「強制とは、他の行動の選択肢がある範囲に対する他人による介入である」とする(Berlin, 122)。つまり、介入によって他の選択肢を選ばせないことが強制である。ある人物が彼または彼女の欲する目的を、他人の介入によって達成出来ないということは、否定的自由が不足しているためその社会は自由ではないことを意味する。しかし、法律が一定の行動を禁止しているため、社会が否定的自由に満ちていると言うことは、人々が自分の欲求のまま、好き勝手に行動していいことを意味しない。強制的な社会と自由な社会の違いがここにある。それはつまり、(否定的)自由社会に於ける法律とは、人々の権利を他人や政府による好き勝手な介入から保護する為に存在する、ということである。その権利でももっとも重要なものが個人の所有の権利であり、リバータリアンの議論するように、「いかに小さな物であろうと、その貯蓄を侵略することは専制的なのである」(Berlin, 126)。よって、否定的自由の最も重視する事は支配が及ぶ範囲である。支配者が独裁者でも、王であっても、支配範囲が限られていれば否定的自由の支持者はそれを良しとする。基本的な個人の自由、つまり抗議する自由といったものは、政府の支配が及ぶ範囲に制限を加えることで保護されなければならないのである。

肯定的自由

他方で、否定的自由との明確な対比を示しているのが肯定的自由である。否定的自由が、支配が及ぶ範囲を重視するのに対し、肯定的自由は誰が、どのような政府で支配するのかに議論の重点を置く。肯定的自由とは理性が自らの支配者となり、何かをする自由である。ある人物が無知、貧困、欲望といった様々な障害の奴隷になり、その人物がしたいことをできないのであれば、彼または彼女は自分の支配者ではなく、よって肯定的自由から見れば自由ではない。

上記の、自らの支配者となるべき仮定的存在は「理性と同一の」真実の自分である、とされる(Berlin, 132)。これはあくまでも概念的な存在であり、その定義は表層上の人格が教育を受け、貧困を免れていたら実行したであろうこと、またはしなければならないことを全てあらかじめ理解する存在であり、要するに理性そのものである。よって、この理性を解放し、真実の自分を自らの支配者とするべく、肯定的自由は社会全体によるその特定の人物に対する介入を奨励する。そしてバーリン卿は、社会全体がこの人物の真実の自分を解放することによって、「社会の全体的な自由がより高められる」と解説する(Berlin, 132)。よって、否定的自由が国王や皇帝からも与えられることが可能なのに対して、社会全体による介入と理性の自由の向上が重要と考える肯定的自由主義者にとって、肯定的自由社会は民主主義でなければならない

否定的自由は肯定的自由に勝る

バーリン卿は、極めて限定的な意味での社会による強制についてのみ、肯定的概念に同意している。なぜならば、否定的自由を突き詰めていくと、肯定的自由が存在する社会では許されないような、他人による人生への介入を避ける為の引きこもりや、自殺といったことが許されてしまうからである(Berlin, 139)。

しかし、バーリン卿は、彼が否定的自由に対して有する疑問以上の問題点を肯定的自由に見い出している。肯定的自由では理性が議論の柱であるが、理性を強調することは、時として予想出来ない、もしくは好ましからざる結果を導くことになりかねない。なぜならば、肯定的自由は「こうでなければならない」ということよりも「こうありたい」と願うことを自動的に非理性的な行動として扱うため、肯定的自由における自己実現は非常に制限されてしまうからである。バーリン卿が述べるように、肯定的自由による解放は、どちらかというと「我々により多くの選択肢を与えるよりも、我々の『不可能を実現したい』という欲求を凍結させる」ことを指す(Berlin, 144)。よって、肯定的自由が満遍なく行き届いた社会では、自分を変えたい、違う人間になりたいといった自発的な選択は、非合理的なものとして扱われてしまう。

自由社会だと思ったら独裁だった件

バーリン卿は、肯定的自由に於ける理性の役割についてもさらなる攻撃を加える。肯定的自由の支持者の間では、「我が理性的であるならば、私にとって正しいことが他の理性的な人たちにとっても正しくなければならないことは、決して否定出来ない」という前提が成立するとバーリン卿は述べる(Berlin, 145)。よって、肯定的自由が定義する理性にとって、社会にはただ一つの、絶対的な真実しか存在し得ないのである。その為に、肯定的自由にとって「個人を正しい方向に向かわせることは、独裁ではなく解放」として扱われてしまう(Berlin, 148)。独裁の可能性、つまり理性による強制が正当化されてしまうことこそ、バーリン卿が否定的自由をより説得力のあるものとして受け入れる最大の理由である。

バーリン卿は「否定的自由の実現が内包された多元主義は、階級、人々、若しくは人類全体による肯定的自己支配の理想を、巨大で規律の取れた権威主義的構造によって達成しようとするよりも、より真実であり人道的である」と述べる(Berlin, 171)。バーリンにとって、多様な意見が生み出される環境、つまり多元主義を制度的に保護する否定的自由は、達成されるのが望ましいのである。

死刑・道徳・西部劇

こうしたバーリン卿の見解は、二つの自由の違いを、問題点を踏まえて根本から説明した物である。肯定的自由が促進された社会では、政府は税率を上げ比較的裕福な市民層の資産に介入し、金銭を巻き上げる。その上で政府は貧民層の生活に介入し、(場合によっては強制的に資金を与え)資産を再配分することで社会福祉をもたらす。その反面、否定的自由はそのような介入を良しとしない。金の持ち主は自分が稼いだ金をどう使おうが勝手であり、それと同時に、資産を持たず働こうともしない人間がいつどこで飢死しようとも自由だからだ。同様のことは他の社会生活にも言える。肯定的自由社会は、例えば売春宿を不道徳で非理性的なものとして禁止する傾向があるが、否定的自由社会では、近所の女子高生が体を売ろうが自由である。また、肯定的自由社会では死刑制度を廃止する傾向がある。これは、人殺しを死刑にすること、つまり復讐という行為そのものが非理性的、非文明的、非道徳的と考える心理が存在するからである。しかし、否定的自由社会では死刑制度は存続し続ける。なぜならば、人が自らの自由意志で行ったことの代償は、必ず対価を支払うことによって償うというシステムを維持しなければ、(誰もが自分勝手に行動できる為)社会そのものが存続不可能になるからである。これこそ、EUの加盟条件に死刑制度の廃止が不文律として存在し、アメリカが西洋でただ一つの死刑制度保持国たる理由である

ただし、社会全体が、何が理性的で、文明的で、道徳的かを設定し、その基準をあらゆる市民に押し付けようとするが故に、肯定的自由社会は潜在的に全体主義独裁を許してしまう。勿論、アメリカに於いても肯定的社会のこのような側面、つまり自分たちの優れた理性は他人を操作する権利を持っていると考える側面はあるが、アメリカのそれはヨーロッパのものと根本的に異なっている。なぜならば、ヨーロッパの肯定的自由社会はカソリック教会によるイデオロギー支配の歴史によって作られた物であり、ヨーロッパ人の言う理性や道徳とは、そのままキリスト教的な理性と道徳であり、彼等はこれを指して世界をリードする文明とし、これ以外は野蛮だと考える。その反面、アメリカ人がアメリカの文明を世界で一番優れていると言うとき、彼等の頭の中にあるのはアメリカの持つ否定的自由であり、徹底的な反権力思想であり、西部劇的な自己実現の自由にほかならない。そして同じく、彼等にとってアメリカ以外の世界は野蛮なのである。

2020年現在の注記