(2003年3月28日の政治日記から抜粋)

ぶっちゃけた話し、この文章は私が大学時代に提出したこの論文の二番煎じです。論証の各段階をいろいろぶった切って短くまとめて、その上で日本語で書き直したものです。ですから、はっきり言って上記の論文をすでに読まれていたならば、これを読む必要はありません。また、お客様が英語を読めるのであればどうぞそっちのほうを読んで下さい。今回、別に書き直そうとしたのですが、やはり提出論文をベースとした方がほうが分りやすく読みやすいと判断しました。


台湾の名称は、是非をともかくとして法的に中華民国とされています。この、中華民国という国は極めて複雑な背景を持っており、私は「台湾は中国と違うの?」と聞かれた時、「人間とは面白いものでね」と前置きを言った後、いつも長い時間をかけて説明してしまう癖があります。

中華民国は国際的に見るとすでに存在していないことになっています。その証拠に、ほとんどの世界地図では台湾は中華人民共和国の一部として描かれています。しかし、実際にはアメリカからの武器供給が続き、多くの国が通商代表部(貿易、経済専門の領事館)を台北に構えています。なぜこのような事態になったのか、そしてなぜ、政治的に認められていないにも関わらず、国際システムでは中国の支配下に置かれる事もなく独立した主体であり続けていられたのか。この背景には、冷戦当時の複雑なパワーポリティクスと、民主化という台湾人による必死の生存のための努力がありました

中華民国は中華人民共和国以前に存在した、内戦状態でバラバラだった中国大陸に無理矢理名前を付けたようなインチキ国家でした。しかし、第二次大戦で戦勝国として扱われ、国連安保理の常任理事国になることを許されました。そして戦後処理に於いて、日本領であった台湾は中華民国に吸収され、取りあえずは国内を平定すれば安泰かなと思われたその時、中華人民共和国(毛沢東が当時オプションとして考慮していた連邦国家も含む)の樹立を唱える共産党と、中華民国を率いる国民党の内戦が行われることになったのです。内戦の結果、国民党は敗北し、中共に支配された大陸を後に、台湾島に逃げることになりました。

しかし、国民党はただ政党関係者を引き連れて台湾に逃げたわけではありません。中華民国政府そのものを持ち込んでしまったのです。大陸各地から選出された議員や、蒋介石に従う閣僚たち、並びに軍隊関係者を全て引きつれ、中華民国政府をそっくりそのまま台湾に移したということです。

台中関係はただの領土問題でもなく、また単なる分裂国家の問題でもありません。なぜならば、中共が台湾を中華人民共和国の領土として主張していると同時に、台湾に逃げ込んだ中華民国政府も、大陸全土を中華民国の領土として主張していたからです。これは世界史上稀に見る主権そのものを巡る争いでした。更に、アメリカは「中共が地政学的要衝である台湾島を占領する事も、国民党が中共に反撃し大陸を回復することも望ましくない」と判断した為、中華民国と安保条約を結び、バランサーとして米軍を台湾島に駐留させる事となりました。よって、当面の間、中華民国は他国とも条約を結んだり、国連安保理での常任理事国の地位を保持することを許され、国際システムでの一アクターとして存在し続けました。この時、中華人民共和国は共産圏を除き、今の台湾の如く名目上「存在しないもの」として扱われていたのです。

中華民国の蒋介石総統は、この時点であることに気付きます。それは、国会を含めた中華民国政府をどうするかという問題です。「大陸は中華民国の領土である」ということを主張している以上、大陸の各地を代表している(とされた)議席をなんとかして保存しなければなりません。また、中華民国政府内のポストのほとんどを、外省人、つまり大陸から逃げてきた人間で占めなければなりません。蒋介石の出した答えが、戒厳令の発布でした。中華民国は非常事態下にあるとされ、一部を除いたほとんどの議席の改選を凍結し、それら議員の任期は半永久的なものとなりました。国民党の主要ポストからは台湾出身というだけでことごとく閉め出され、もともと「漢民族のくせに中国人という自覚がない」として迫害されていた本省人は、制度的にも政治から切り離されることとなりました。国際政治に於いて、中華民国が国家として存続を許されていたこと、冷戦という特殊な時代背景があったこと、そしてアメリカによる経済的政治的な国民党支援政策は、台湾での独裁政権樹立に大きな正統性を与えてしまいました。台湾人に対する弾圧は、第二次大戦直後から断続的に起こっていましたが、これを期に本格的な白色テロの時代が始まる事になったのです。

さて、我々はここであることに注目しなければなりません。それは、国民党と共に大陸から逃げてきた外省人のほとんどと、日本領時代から台湾に住みついていた本省人は、同じ漢民族だということです。同じ漢民族でありつつ、台湾人は外省人の格下として、長い不遇の時代を迎えます。ここに、台湾人という「漢民族でありながら漢民族ではない、新しい民族」が如何にして形成のプロセスを歩み始めたかのヒントがあります。

文献を紐解くと、独裁政権樹立直後の台湾では、驚くほど「台湾独立」を求める声が少なかったことが分かります。台湾人の改革派が唱えていたのは、どちらかといえば「本省人にも政権参加をさせろ」といった、日本領時代からあまり変わらない民主化を求める主張でした。しかしその声は、独立を求めるものに急速に変化していく事になります。また、この時期を境に、台湾人は自分達を指して呼ぶ時「本省人」というよりも「台湾人」という表現を好んで使うようになったことから、中国人と台湾人の明確な区別が能動的になされていき、彼らの新しい政治的アイデンティティーの獲得が始まった事も示しています。これら事象は非常に面白い事に、ある時期に集中しています。それは70年代前半であり、その時に国際政治上の一大変革が起こっていました。

この一大変革とは、アメリカと中華人民共和国の国交樹立、中華民国の国連常任理事国ポストの喪失、そしてアメリカによる一方的な安保条約の破棄です。ソ連抑止を目的とした米中による実質的な同盟樹立と台湾切り捨ては、小国である台湾を過酷な国際政治という名のアリーナに突き落とし、中共による台湾占領というシナリオにかつてないほどの現実味を持たせました。これは、台湾人に対して「台湾島が永久に中国人に支配されるかもしれない」という恐怖を抱かせたと共に、国民党に対しても「国際政治が与えた正統性が失われた今、独裁政権をもはや維持できなくなったのかもしれない」というメッセージを突き付けたのであります。

台湾人の人口は、国民党が引き連れてきた外省人と比べて圧倒的多数を占めています。よって、彼らの力が得られない限り、中華民国政府は統制を維持する事ができません。この時期から国民党は積極的に台湾人を政府内の重要ポストに登用していき、なんとかして台湾の民主化を実現させずに台湾人からの支持を得るかの模索を始めました。また、議員議席の部分的な改選も、国民党の影響力を崩さない程度に行われるようになりました。李登輝前総統が、国民党幹部として抜擢されたのは丁度この時期にあたります

そして、台湾人の政治活動もこの期を境に活発になっていくことになります。白色テロは続いていたものの、民主化を求めていた活動家は「台湾独立」という主張を組み入れはじめ、機関誌や集会を通じてサポートを集め、(国民党以外の政党結成は禁じられていたことから)無党派議員として着実に議席を確保していきました。「台湾人は台湾を支配する権利がある」という主張の下で結束し、彼らは後の民進党を形作ることになります。

また、台湾が中共に占領されてはアメリカもたまったものではありませんから、彼らはこの民主化を「台湾を国家としてではなく一つの独立した政体として、改めて世界に認識させる」という意味から国家戦略として支持しました。台湾島はいずれにしても、通商国家であるアメリカにとっては重要な地政学的要衝であります。アメリカは、民主活動家を裁くために開かれる非公開軍事法廷を、武器供与カードをちらつかせ無理矢理メディアに公開させ、議事録を新聞に掲載するといった形で、民主化を支援したのです。また、CIAが当時の総統将経国に対して「台湾人による政党結成を容認しなければ、将経国自身が過去に命令を下した暗殺を暴露する」と脅迫していたということも、台湾では未だに暗黙の事実として知られています

こういったプロセスを経て、台湾人は中華民国という一つの国家が世界地図上から消え去った時から、台湾総統の国民選挙による選出が実現するまでの期間に渡る、長い民主化への戦いを勝ち抜いていったということでございます。これはまた、漢民族でもなく、日本人でもなく、台湾人という全く新しいアイデンティティーが創造されていくプロセスでもあり、国民党の独裁政権が打ち倒され、一つの国家が新しい権力体制とリソース集積システムを獲得し、再生するプロセスでもあります

今回は、台湾の民主化がどのように達成されたのかを、国際関係論の現実主義的な世界イメージを用いて説明していきまました。台湾民主化の正体とは、過酷な国際政治に放り込まれ、中共が脅威として存在する中、「台湾島を支配するのは台湾人である」という、台湾人が発したナショナリズムの再定義を伴う強烈なメッセージでした。それを踏まえた上で、私は台湾の民主化を、国際システムに於ける「台湾」という単一の行動体の再生と定義付けています過酷なまでの自立を求められる国際システムと、「自分達の命運は自分達で決める」という民主主義の原則が密接に、そして複雑に共鳴し、民主化は達成されたのです。台湾人が、生存のために選択した答えが民主化だったということであります。

これは、アイデンティティーやナショナリズム、そして国家同士の相互認識でさえも、時間をかければ修正可能であり、また脅威の認識は能動的に改める事が出来るし、改めるべきだとしたコンストラクティヴィズムに対する反論として書かれました。それら変数は、脅威の発生と自己保存の原則に依存しています。また、国家の誕生、死、そして再生に注意を払わず、観察対象である国際システムに存在する各アクターが、あたかも昔から存在し続け、これからもそのまま存在するかのように議論を進める(主にケネス・ウォルツらの)リアリズムの悪い習慣を指摘するという目的も持ち合わせています。