(2002年12月3日の政治日記より抜粋)

国家権力とは何か。この命題については、古くから政治学者たちが持論を展開してきました。そして、現代に至る過程で、国家権力そのものの定義は根本的に変質し、その原型はほぼ見失われたのであります。重要なのは、これはただ言語的に見失われただけで、その本質は古来より変わっていないということです。

結論から申し上げますと、国家権力とは暴力の独占に他なりません。例えば、台湾の路地を歩く憲兵隊や、アメリカのシークレットサービス、日本の自衛隊など、政府から権限を与えられた特定の人たちは共通して武器を保有しています。それは、国家権力が暴力を独占しているからに他なりません。国家が許可を下した人物のみが、合法的に暴力機能を許された範囲内で保有できるのです。警察は治安を維持する時に警棒を使い犯罪者を殴り、シークレットサービスは大統領の命が危険にさらされたとき敵に射撃を加え、死刑執行人は司法の許可のもと殺人を行います。これらは当然のような話ですが、権力の真の姿です。

人権屋とか肯定的リベラリストな連中は、こういった事象を指して「野蛮だ」とか「非文明的だ」とか言いますが、国家権力の真の姿は未来永劫変わることがありません。つまり国家は、例えその政府の長がキリストでも、国家の秩序を維持するために、暴力行使(地獄に落とすぞ(°Д°)ゴルァ)や、暴力の権限委託能力を保有し続けるのでございます。

しかし、冒頭に述べたように、権力の真の姿は現代に近付くにつれ見失われることが多くなりました。今の時代は、法律が暴力独占の礎となっていますが、それは時代の移り変わりとともに打ち立てられたものです。専政時代の時、国家権力は非常に率直な形で暴力を独占しました。そして、国家権力を手に入れる方法もそれはそれはシンプルなものでした。つまり、最も武力を有するものが天下を取り、その強大な力を持って国を治めたのです。それは、やがて封建制度が確立されると共に変わっていきました。ただ武力があるだけでは天下を取ることが出来ない(と理解される)時代の到来です。各国国王の血統や、宗教上の権威から与えられる統治権限の委託といった、暴力機構の正統性が重視される時代であります。

そして近代に入り、ヨーロッパの大国から始まる国民国家という概念の定着と共に、次第に暴力機構としての政府は人の作った法律の支配下に下ることとなります。国境が確定するとともに、国民は自らを国民として認識しはじめ、自分達の支配者だけが自らを支配することに対しての正統性が生まれました。また、既存の国際政治システムは、正統性のパラダイムが変わったことで崩れ去り、国家同士が血で血を洗う、まったく新しい形の大国間政治がここに誕生したのでございます。

この、新しい形の大国間政治は思いもよらぬ副産物を国内政治にもたらしました。新しい形の大国間政治に於いて、国家を守るのは、神のご加護でも教皇の保護でもなく、自らの軍事力だけとなりました。ここで、過酷な国際政治を生き抜くために、各国は自らを効率的に強くする手法を見いださなければならなくなったのです。その答えが、民主主義です。

民主主義に於いて、国家の政治的権限は国民に分散されます。それまで国王などの一人の人物や、貴族といった少数のグループから、国民が政治権力を奪い取り、文字どおり全員が全員自らを統治する道を選ぶことで政府の正統性は最大化されました。軍隊を増強したり、資金を国民から吸い取ったりと、国家の存亡に関わる事業を、必要とされる時にもっとも正統性のある手法で行える、非常に効率的なシステムが国民の手によって作られた、、、それが、私たちの生きている時代の本当の姿です。これこそ、前述したように、国民が間接的に作り出した法律に、国家権力の根本である暴力の独占が司られている理由でございます。我々が我々自身を支配しているからにほかなりません。

さて

ヨーロッパに限って見ると民主主義はかれこれ2世紀程度、世界的な潮流として見ると半世紀の歴史があります。しかし、私のようなコテコテの古典的現実主義者から見ると、民主主義はそれくらいの歴史しかないのです。いわば、自然科学で言えば、実験とデータ採集を続けている段階で、結論がまだ出ていないのでございます。平和ボケした民主主義万歳な奴らを見ると、何を根拠にこの国家権力システムが最も優れ、最も効率的で、未来永劫続いていくとするのか小一時間問いつめたい。私は別に、民主主義が劣っていて、独裁政治が優れていると言いたいわけではありません。ただ、この状態が絶対的にベストなわけではないし、これからも続くと思い込むべきではないと問いているのです。実際、アメリカでは投票率が年々低下し、国家元首を選ぶ大統領選でさえ50%を割り込む恐れがあります。日本では、国民が投票しなくなったことから政治権力のハイラルキーが事実上膠着し、民主主義の美点であるはずの高い効率性が箱もの公共事業として消えていきました。私は繰り返します。世界のほとんどの国では、民主主義は人類の長い歴史の中たった50年そこらしか続いていないのです。そして、その裏では、世界の本当の姿はまったく変わっていないのです。

私は、これまでの連載で、国際政治が国民のナショナリズムとアイデンティティーの再定義を促すと説いてきました。それと同様に、今回見たように国際政治は一国の政治システム、つまり暴力の独占を誰が行うかをも再定義する力を有しています。もし、国際政治が要求すれば、民主主義国家は大きな変革の後、暴力の独占を法律の手から取り戻すことになります。国家は自己保存のために何でもする存在です。ぶっちゃけた話、とても極端な例ですが、最も効率的に国力を増強できるのが君主制ならば、欧州各国は昔の革命時に国外追放した王室を呼び戻すし、アメリカにおいてでさえ皇帝が誕生するでしょう。

私は以前の日記で「んじゃ、幕府作るか」とかほざきましたが、あれが冗談だと思いましたか?実際に私が作るかどうかは別として、あれはマジです。我々は国民として、国家権力を呼び戻せる唯一の存在として、必要となる時に備え、いつでも行動できるよう準備する厳然たる義務があります。現状では、我々は政府の効率性を高めるために投票しなければなりません。そして、万が一の時には、政府をいつでも転覆する覚悟を身に付けておくのが、特権階級から権力を奪い取った、国民国家に住む国民の宿命であると理解するべきです。

、、、とにもかくにも、この世は無常でございます。もし、「国際政治が国内政治を形作るんなら、なんでもありだな」と理解して頂けましたら、私はあなたにこの言葉を捧げます。

現実主義へようこそ

関連→The Re-Formation of a Unified Actor:Taiwanese quest for national unity and identity(結論に引用されているランケの文章を参照して下さい)