(2002年頃の文章)

日本には、多くの優れた国際問題の解説サイトがあります。その数は年々増えてきて、とても頼もしい限りであるというのが本音です。語られている内容のクオリティや正確性はともかくとして、多くの方が国際関係に近付くことで、日本の国益や将来像をイメージできるようになることは、今後日本が過酷な国際政治を生き残る上で非常に重要なステップであると思うからです。

しかし、国際関係を理論的に学んだ者として、やはり苦言を呈さなければなりません。それは、日本のインターネット界においては国際関係を扱うサイトのほとんどが未だにジャーナリズム的な視野に甘んじ、ひどい時にはれっきとした学者でさえ正確な視点を持っていないという「理論の欠如」にあります。国際関係論はジャーナリズムではありません。例えば、ジャーナリストであるならば「パワーポリティクスは永遠に無くならない。だが国々はそれぞれの国民性によって行動が左右される」と主張する事ができます。しかし、国際関係を正確に見るためには、それは許されません。

国際関係論には「変数」という概念が存在します。軍事力や国民性といったものは全て変数です。そして、理論の役目はそれら変数を整理し、不必要な変数を完全に除外する事で分析に整合性を持たせ、より正確な予測を立てる事にあります。もちろん、あらゆる変数を吟味して総合的に判断することは出来ます。しかし、デタラメに変数を扱う限り、正確な未来予測を行う事は不可能だと言わざるを得ません。なぜならば、あらゆる変数を分析に組み入れた場合、「どの変数が決定的要因か」については個々の主観による判断に委ねられるため、そして一人の人間は神のような全能者たり得ないため、未来予測の正確性が著しく損なわれるからです。

これは、日本のインターネット界に於けるほとんどの国際関係分析サイト、また日本のメディアに出没するほとんどの自称「国際関係評論家」、そして大学の授業室に当てはまります。「理論抜きの未来予測は戯言に過ぎない」ということを彼らとその読者が自覚しない限り、日本の国際関係論壇が欧米並みの発言力と戦略性を手に入れる日は永遠に訪れません。そしてこの「理論軽視」の傾向は、今後の日本にとって多大なる災いとなって降り注ぐでしょう。日本から国際関係論の世界的なリーダーや戦略家が現れないのは、日本の分析家が理論を使いこなせていないからに他なりません。国際関係にコメントさえすれば分析になる、予測が成立するという日本の現状は絶対に改善しなければなりません。なぜならば、それらは無力な一個人がデタラメに放出したたちのわるい戯言に過ぎないからです。

「陽の杜」のこの連載に於いて私が目指すものの一つは、理論を持ち込む事によって、そういった日本の現状にささやかながら警鐘を鳴らしたい、あわよくば情報の流通が活況を呈しているインターネットから手を付けたいということにあります。小さなサイトではあるものの、決して無駄な試みではないでしょう。

第一の目的は、インターネットで活躍している、多くの国際関係評論家に主に向けられていまが、第ニの目的は専門家である学者に向けられています。

私が大学時代に使った文献のほとんどは英語のものでした。しかしながら、たまに余興として日本語訳を探しては楽しむということを繰り返すうちに、非常に重要なことに気付きました。それは、日本の国際関係論の専門書籍のほとんどが、無駄に分かりにくい言葉で書かれているという一言に付きます。そうすることによって、大衆が得るべき知識が少数によって結果的に独占されることになっています。

例えば、アメリカにノージックという優れた政治学者がいるのですが、彼の書いた「アナーキー・国家・ユートピア」は安価で発売され、しかもさらに安価なペーパーバック版でも出版され、政治学の専門書籍でありながら全米ベストセラーとなりました。翻って日本では、専門書は極めて高値で取り引きされ、ベストセラーになることはあり得ません。

安値で売られるには、多くの人が買うという見込みがなければなりません。そして実際に、欧米では専門書が多く購入されています。しかし日本では、高値で取り引きされていて市場の規模が小さい。これはどういうことかというと、日本の専門書は分かりにくく、よって購入層が限定され市場が育っていないため、出版社は高値で売らないと経費をカバーできないということです。

要するに、日本人の学者のほとんどは分りやすく書くのが下手なんです。もったいぶって、難解で抽象的な言葉を使う事で品格が得られると勘違いしているのか、とにかく分かりにくい。欧米の論壇では、文章を具体的に分りやすく書くことを高校時代から訓練されているところを、日本では分かりにくく書く事が良しとされています。

具体的に、英語でこのような表現があるとします

The UN constitutes a liberal institution.

この表現を、日本人の学者ならばこのように記すでしょう。

国連は自由主義的制度を構成している。

英語であれば「constitutes」も「institution」も日常から使われている言葉で、高校を出る程度の学力があれば、アメリカ南部のパンクですら普通に理解できます。日本語では、一般人からすれば分からない事はありませんが、敬遠する感情が芽生えてもおかしくはありません。どこか、なんとなくもったいぶっているのです。上記の例はまだいいほうで、専門書をひも解くと更にわけのわからん事態になっています。私の母国語は日本語ですが、それにも関わらず英語書籍のほうが分りやすいというのは異常です。これでは、日本で国際関係論の知識が浸透するのはあり得ません。知識が、学者のいい加減なプライドによって独占されているといっても過言ではありません。試しに、ネット上に存在する国際関係論のアカデミックなサイトを見てみれば分かります。ネット上ですらもったいぶっているのですから、現実世界の惨状はすぐに理解できます。

ですから私は、できるだけ分りやすい言葉で非常に専門的な事を語ります。中学生が読んでも分かる言葉で、大学の国際関係論ゼミのレベルに相当するものを伝えます。そうすることによって、私は多数の方に、国際関係論の基礎知識を流通させると共に、日本語は、上手に使えば読んだ人誰もが高度な内容を理解出来る文章を書く事が可能であるという、知識の流通という観点から見て極めて優れた言語だということを実証したいと考えております。確かに、文章の風格は失われるとは思いますが、大勢の人が知識に触れ、自ら理論的な分析をできるようになることと比べれば大したことではありません。

第一、第ニの目的は共にパブリックなものですが、第三の理由は極めて個人的なものです。そしてこれこそ、この連載が目指すもののなかで最も重要なものです。

皆様ご存じのように、私は2003年4月をもって某商社に就職致します。しかし、社会人生活は甘くなく、多忙な毎日の末に自分の目的意識や、国際関係論のコアを忘れてしまうかもしれません。この連載は、それを憂いた現在の私が、将来の自分のために書くものです。今の私が、大学時代に学んだことのなかで最も重要なものをまとめ上げ、今後いつでも、どこでも読み返せるように、世界のどこからでもアクセスできるネットの大海に放り込んだタイムカプセル。それが、「詳説:国際関係論」です