チベット化する香港

「香港国家安全維持法」が7月1日から施行されました。本邦では主要五紙の朝刊が左右構わず批判的なトーンで伝えており、相当な異常事態であることを想起させますが、施行初日から早々に反対デモの逮捕者が300名と伝えられるなど、中共は積極的に火に油を注ぐスタイルを貫き通しています。米国が強力な制裁措置を示唆したり、英国は香港住民に対する入国管理の改正を表明する一方、中国国内は例によって「世界各国は国家安全維持法の成立を祝福している」とか、「これで一国二制度が強化された」という意見が上から下まで主流を占めており、全く議論が噛み合いません

同法の法解釈や運用については多くのメディアが解説しておりますので、ここでは、香港が中国の完全支配下に置かれた事を前提に、複層的に香港の今後をざっくりと読み解いていきたいと思います。予めお伝えすると、以下の記事は右な方から左まで、全員に耳の痛い話となるかもしれません。心に傷を負いたく無い方は、こちらをクリックして私の愛用するTwitter「癒しチャンネル」でもふもふ画像をお楽しみください

香港の凋落

大湾区構想に見る中共的救済措置

かつて、中国人は開放的で西洋文化の窓口であり、経済的にも豊かな香港を憧れの眼差しで見ていましたが、そのような姿は今は昔。1997年の返還以降に提供された数々の経済政策によるテコ入れに反して2014年に実施された雨傘運動を経て、2018年にはGDPが隣接する深セン市に追い抜かれた実態を目の当たりにし、「香港どうしようもねぇな」というメンタリティが中国人に醸成されました。これが中共指導部ではなく、大衆の一般的な認識であることは、残念ながら、是非は兎も角として厳然たる事実であることを受け止める必要があります。従い、本件がキッカケとなり在中国の香港支持者による民主化運動が盛り上がる、という展開には絶対になりません。万事、相手を知ることが重要です。

そんな中、2019年2月に中共は香港・マカオ・広東省の統合プロジェクトである「大湾区構想」を華々しくぶちあげました。2035年までに通貨、税制、そして(普通選挙や言論の自由・司法の独立などを除く)社会制度の一部を統合し、段階的に一国二制度を解消せんとする長期プロジェクトです。ある意味、行政区分としての香港を消し去る可能性のある措置ですが、これは中国本土の経済力をもって香港の経済的地位を救済するプランであったという中共側の認識は、是非は兎も角として理解すべきでしょう。そのような中共の「施し」に対し、昨年発生した苛烈な逃亡犯条例改正案反対デモです。習近平指導部が国家安全維持法を強行した背景として、一般的な中国人の香港に対する差別的感情が後押しした、つまり民衆を恐れて他の選択肢が無かった可能性は無視すべきではありません。

一国二制度の中共的解釈

大湾区構想からは、香港の高度な自治を約束する、英中共同声明が定めた「一国二制度」について、中共が独自の解釈をしていることが見て取れます。中共の世界に於いて、二制度が指すものは経済制度であり、法制度であり、社会制度を指しますが、普通選挙や三権分立といった政府の制約事項を定義する統治・ガバナンスに関する制度、つまり政治システムは除外されていた、ということです。だからこそ、欧米諸国(並びに控えめな日本)と中共の会話が噛み合うはずがありません。同じ単語を使いつつ、ベクトルが正反対を向いているためです。当然、解釈の相違は中共中央も理解しているため、欧米に対して真正面から殴りかかったのは意図的であったと言えるでしょう。

香港のチベット化

民主化運動は勝てない

以上から、中共はこの問題について絶対に妥協しない、ということが分かります。そして何より、地図を見ていただければ一目瞭然ですが、制海権があれば武力による香港の制圧は容易です。この最終手段があるからこそ、中共は常に優位な立場で事を進めることができるし、欧米は直接衝突を恐れて何も出来ないとタカを括っていられる。民主化運動は諦めるか、逃げるか、潜伏してゲリラ化するほか選択肢はありません。都市ゲリラになったとしても、ウイグルの荒野ならともかく、あの狭い香港で闘争を続けるのは無理というものですし、中国の一般市民が味方することもないでしょう。とても残念ですが、民主化勢力の皆さんは勝てません。圧倒的な暴力が後ろに控えるなか、勝てない喧嘩は決してするべきではないし、若い命を無駄にしてはいけない。来たる乱世に備え、耐えながら牙を研ぎ続けましょう。

見捨てられる香港

米国では7月1日に「香港自治法案」が下院を通過しトランプ大統領の署名・発効を控えますが、同法による制裁の内容は自治侵害に関わった中国当局者などに対する資産凍結などのほか、制裁対象者と取引した金融機関への2次制裁が盛り込まれた程度の内容です。金融取引・関税優遇措置の撤廃といった本格的な制裁は、逆に金融センター且つ国際貿易のハブである香港を不利な状況に追い込む可能性のある「究極的措置(Nuclear Option)」として、実施されるかは不透明と見られています。

我々は、似たような情景を見たことがあります。チベットです。強制的に併合され、独立勢力は徹底的に力を奪われ、現在は観光収入と中央政府の財政投融資によるテコ入れで経済を維持している。欧米諸国は同情するものの有効な打つ手はなく、口だけ支援になりそうな点も共通します。もっとも、このアナロジーが正しいのであれば、住民の反政府感情は燻り続けるため、内乱を抑えるために経済支援と融和策を継続しなければならない。弾圧は容易ですが治安コストはバカになりません。そして何より、香港の経済インフラは中国を出入りする国際的なカネの流れを支える窓口としての側面があることから、強権統治が過ぎてキャピタルフライトを惹起させては本末転倒なのです。チベット民族と同様に漢民族の差別意識が壁となり中華民族への統合も望めず、中共中央は永続的且つ深刻な政治的・経済的負債を抱えることになったと断じてよいでしょう。

自由主義陣営は中国を民主化するツールを喪失した

香港は、私のような中国分析を生業とする者にとって、インテリジェンスの聖地としての側面があります。中国政府の観測気球や反体制勢力の怪情報、はたまた西側情報コミュニティーからのリークが飛び交う「闇鍋」以外の比喩表現が見当たりません。これらはすべて、言論の自由が保証された現地メディアを媒体とし、真贋入り乱れた当たるも八卦の香港情報として漏れ出ていました。香港はアジアの金融センターのみならず、情報センターとしての役割があることを忘れてはなりません。このため、シンガポールではなく敢えて香港で活動する投資ファンドは実に多いし、香港に分析部隊を置いてシンガポールで意思決定する金融機関もざらにあります。

従って、香港に於ける外国諜報機関やメディアの活動を警戒し、国家安全維持法において外国人も処罰対象とした中共中央の意思決定は、西側自由主義陣営にとって非常に痛い一手であったと評価せざるを得ません。今後、香港を経由した中国本土の反体制派への支援や、本土内で活動する工作員や情報提供者の香港への一時退避が不可能となったことで、インテリジェンス関係者にとっては頭が痛い状況になりました。欧米の強い反発には、痛いところを突かれたが打つ手が無い事への焦りが表れています。要すれば、情報工作による中国の政権転覆や民主化運動のための、有力なアクセス手段が失われたに等しい。こうした意味でも、国家安全維持法の強行は、コロナ後の世界を占うターニングポイントであると言えるでしょう。

中国の覇権国家宣言

尚、国家安全法第38条は「香港特別行政区の永住権を持たない者も香港以外で規定の罪を犯した場合、本法が適用される」と明記しており、要すれば今後世界中で中国の政府転覆を図る行為=中国共産党批判が許されなくなったと解釈されます。適用範囲を明確にしないことで行動自体を萎縮させる、非常に中国らしい措置ですが、このような域外適用の考え方は米国による経済制裁でよく見られます。例えば対イラン取引に於いて、ある日本企業が制裁対象の企業や個人と貿易決済した場合、当該日本企業が二次制裁の対象となります。この理不尽な仕組みを担保するのはSWIFTと呼ばれる国際送金システムによる監視であり、これに引っ掛かるのが怖くてまともな金融機関はそのような貿易決済を引き受けません。こうした二次制裁は超大国・アメリカ合衆国だからこそ許されていたものと理解されてきました。

従って、国家安全維持法に於ける域外適用の導入を中共が高らかに宣言したのは、今や米国に比肩する覇権国家となった事を、(それが事実かは別として)内外に主張する行為に他ならないと受け止めるべきでしょう。しかし、ここで疑問があります。米国の二次制裁は、基軸通貨である米ドルを用いた金融取引の監視網が担保しています。中共はどのように国家安全維持法の実行力を担保するのか?どのように国外外国人の思想・発言を監視するのだろうか?知恵のある読者なら、もうお気付きではないでしょうか。あなたのパソコンやスマホのインターネット通信が、米国当局の危惧するように、半導体チップに仕組まれたスパイウェアや基地局ルーターを通じて本当に中国に見られているのかどうか、実のところ私には確証がありません。しかし、その恐怖心を利用して行動修正を図るのは、繰り返しますが非常に中国らしいと、私は思います。

とりあえず、PowerGameJournalが開設早々に店仕舞いの危機に晒されてしまったことは、よく分かりました。私は細々と生きていきたいので、意外にもホワイトな労働環境で知られる中国ネット監視員の皆様に次の言葉を捧げたいと思います。親愛なる習近平主席、万歳、万歳、万々歳!