(2002年10月10日の政治日記より抜粋)

今日は双十節でございます。双十節とは何かといいますと、中華民国(台湾)政府成立の日であります。今頃、総統府の手前を膨大な数の兵隊さんがパレードしていると思います。市街地のまっただ中を軍が占拠するわけでして、この儀式はまぎれもなく今は亡き軍事政権時代の名残です。私は子供の頃あれを見て、大変なショックを受けました。かっこいいと思うと同時に、日常がいとも簡単に打ち破られることを痛感したような記憶があります。軍事パレードはガキの時に1度は見ておくべきです。

1975年の双十節パレード

軍事パレードというものは面白いもので、なぜ軍事パレードをやるのか、やらないのかということを調べてみるとその国家そのものが見えてくるものであります。例えば、アメリカは世界最強の軍事力を誇りながら、戦車やミサイルを市街地にもって行ってその力を誇示することはほとんどありません。それは小学校から愛国心教育を徹底させ、且つもともと国家の力が明かに強いため、無理して国家権力の根本(つまり暴力機構)を全面に打ち出して国家に対する忠誠を求める必要が無いからであります。

その逆が台湾で、高い経済力を持ちながらも、軍事政権時代は国家の統制を維持するために軍事パレードを行う必要がありました。そうすることによって、国民の大多数を占める台湾人に対し、台湾島の支配者は中国人であることを認識させると共に、セレモニーとして行い台湾人も参加させることで、台湾人が自分達を中国人として再定義するように誘導したわけであります。いまだに軍事パレードを続けているのはまさに正反対の理由で、台湾人が政権を獲得したため、中国人に対して、台湾島の支配者は台湾人であること、そして中国人に対して自分達を台湾人として再定義するよう誘導しているのでございます。

政治学ではこういった、国家機構から押し付けられる愛国心を公定ナショナリズムと呼びます。公定ナショナリズムが必要な国家は、ほとんどと言っていいほど多民族から構成されており、軍事パレードは要するに国家が統制を保つため、ナショナリズムを作る道具の一つなわけです。よって、そういう国は軍事パレードなどから我々が受ける印象より弱かったりします。というか、それを行うこと自体が、国家の統制が取れていない、つまり弱いことを如実に示しているのでございます。

国というものは、統制がとれていないと判断した場合、それをなにがなんでも修復しようとする性質を有しております。これは当然の話で、近代政府の役割そのものが国民を統制することにあるからです。実は、意外なようですが、今私たちが自分達を「日本人」として認識できるのは、公定ナショナリズムが明治時代に作られたからでございます。お国意識を取り払い、ナショナリズムを養うことによって国家の統制を保つことこそ、明治政府の最初の仕事の一つでした。要するに、前回申し上げましたように、国民というものは作り替えられるものなのであります。

つまり、私が何を申し上げたいのかといいますと、日本の様に近代的な国家でも、いや、近代的だからこそ、このまま日本国民のアイデンティティが崩れ、ナショナリズムが機能不全に陥り、国民が政府に忠誠を誓うことを忘れて国家の統制が取れなくなった場合、政府は公定ナショナリズムを再び強要することになります。すでにそれは教育現場で始まっていますが、教育やメディアを使っても愛国心が養われなければ、いつの日か必ず、靖国通りを兵隊さんのパレードが横切ることになるでしょう。

国家から愛国心を押し売りされるのはいやですか?仕方ありません。理論的に見ると、そうならざるを得ないのでございます。国民がナショナリズムを嫌がったら、あとは政府が動くしかないんです。世界中何処に行ってもそういうものなんです。ナショナリズムとか、ナショナル・アイデンティティーを否定する日本人こそ、世界的にみて非常識であり、この国が普通の国家になれない最大の障壁なのであります。

さて、今回は公定ナショナリズムについて、つまり国家というものは統制を欲する存在であるということを説明しました。これでやっと、国際関係論に於ける最も重要な概念「Unified Actor」に触れることができますが、その前に権力の本質について説明しなければなりません。

後記:2019年双十節パレードの動画も貼っておきます。この変わり様。民族・ナショナリズムの観点から比較すると、多くの示唆が得られます。