自由主義はアメリカに於いてまったく異質な物に変貌していった。いや、もともと存在していたヨーロッパの否定的自由社会が、アメリカに渡ったと考えるべきであろう。しかし、結果的に、アメリカで生き延びた否定的自由主義は次第に体系化され、学術的にもカントやルソーに代表されるヨーロッパの肯定的自由主義に匹敵する勢力となった。その代表的な思想がリバータリアニズムである。

ハーバード大学のロバート・ノージック教授は、著作アナーキー・国家・ユートピアの中で、否定的自由をリバータリアニズムという形で論証した。ノージックによれば、リバータリアニズムは国家の役割を「暴力、窃盗、詐欺、契約の強制」からの保護に制限し、「それよりも拡張された国家は、一定の行動を強制されないという個人の権利を侵す」という(Nozick, ix)。よって、リバータリアンにとっての国家とは最小限の力を持つ最小国家でなければならず、その代わりに個人の否定的自由は最大限に保護されなければならないのである。以下の文章は、ノージックの主な論証、つまりなぜ国家の自然状態が最小国家を正当化するのか、なぜ国家が権利と自由を侵害する道徳的正統性を有さないのか、どのように最小国家がいかなる人間の権利を侵害せずとも作られるか、そしてなぜ最小国家以上に拡張された国家が自由意志にとって許されないかを解説する。

ノージックの思想実験

最小国家が道徳的に許容される唯一の政府形態であることを証明するため、ノージックは自然状態からどのようにして最小国家が作られるかを説明している。自然状態から生まれる最小国家の過程、つまり人々がそもそも、なぜ政府のない自然状態から国家を作ったのかを示すことによって、最小国家の正統性が証明される。かなり強引ではあるが、ノージックは思想実験を行い、最小国家こそが(仮想的無秩序に住む)人々の選択し得る唯一の政府であることを示せば、実際に我々が現実社会で国家を解体し、すべてを無秩序に戻した上でもう一度最小国家を作ってみる必要がないとしている(Nozick, 5)。

ノージックは、自然状態から最小国家の変遷に於いて3つの段階があるとする。それらは会員を保護する目的に作られた保護協会群からなる無秩序社会、判決の履行が最大唯一の保護協会に委ねられた超最小国家、そして全ての人が会員であり、万人の権利を保護する為にだけ政府の持つ「保護」という機能が平等に配分される最小国家の三つである。そして、ノージックが最も強調する点が、この三つの段階を経た最小国家の形成に於いて、誰の権利と自由も侵害されていないということである。これを説明するにあたっての彼の大きな理論的枠組みを、ノージックはアダム・スミスの唱えた神の見えざる手にちなんで「見えざる手説明」と名付けている。これはつまり、最小国家が意図して計画的に作られる物ではなく、知らないうちに、いつのまにか、しかもなんとなく出来上がってしまうからである。このメカニズム自体は、スミスの言う神の見えざる手による市場の(知らないうちに、いつのまにか、しかもなんとなく行われる)自然な需要と供給の調整と同一である(Nozick, 18)。

ノージックは、自然状態における保護協会が最小国家になる過程に於いて、誰の自由も侵害されないことを強調するが、その前になぜ国家、保護協会、そして個人のいずれもが他人の自由を侵害することを許されないのか説明する必要がある。端的に解説するならば、それは「我々の道徳判断が他人より劣る、」若しくは我々の道徳判断が他人より優れていると証明できる個人は人類の内に存在しないからである(Nozick, 33)。そして、一個人の命は、彼または彼女の持つ唯一の命であり、その為に自分勝手に生きる権利を持っていることから、より巨大な社会的善を追求した「我々の内の誰か、または他人による犠牲」は、いかなる物であっても人類そのものによって正当化されることが出来ないのである(Nozick, 33)。上記を前提とし、そして政府は個人の間、または様々な利害の主張に対して中立でならなければならないため、社会全体の向上を目的とした、(誰かが金銭的な犠牲を払うことが強制される)国家による自由と権利に対する侵略は、人類社会そのものによって正当化されることが永遠にない、とノージックは述べる。

ここまではノージックの論証に於ける基本的な枠組みを解説してきたが、以下ではノージックの論証そのもの、つまり自然状態から最小国家への三つの段階を解説していく。

保護協会

ノージックによると、自然状態では複数の保護協会が生成されるという。他人による権利の侵害から自分自身を守り、例えば個人資産を窃盗から守り、侵害者を罰するといった行為を効率的に行うため、無政府状態では人々が協力し、結果的に複数の保護協会ができるためである。注意しなければならないのは、これら保護協会は定義的に国家ではない、ということである。なぜならば、「国家のみが、その中に住む人の意志に反して判決を強制できる」からである(Nozick, 14)。複数の保護協会がその判決を同一の侵害者に履行できるため、たった一つの保護協会が処罰権を独占しているわけではないのである。

しかし、ノージックは、時が経つにつれて一つの独占的保護協会が生まれるとしている。強く、支持された保護協会が衝突する判決を巡って他の保護協会と武力で争い、勝利の結果として勢力を広げるかもしれない。また、複数の保護協会がより巨大な保護協会を作る為、自発的に協力することもあり得る。そして、たまたま地理的なエリアが小さく、そこに一つの保護協会しか存在し得ない、ということもあるだろう。だが、ノージックが強調するのは、マーケットとしての人間社会である。人々は、複数ある選択肢からもっとも公平な保護協会を選ぶことによって、自分自身を「信頼できず、不公平な手続」から身を守ろうとする(Nozick, 102)。このように、保護協会市場が成熟するにつれ、保護協会間の優劣が決定付けられる。結果的に、完全な独占ではないものの、一つの独占的な保護協会が生まれる

超最小国家

それでは、この独占的保護協会は、どのようにして保護と処罰の権力を完全に独占し、超最小国家になるのだろうか?そして、独占的保護協会と超最小国家は、どう厳密に異なるのであろうか?ノージックは、一つの独占的保護協会が作られても、数人の個人はその保護の下に暮らすよりも独立し続けようとすることを否定しない。これら独立人が存在する限り、保護協会の権力は完全な独占ではない。なぜならば、独立人は自らの自由と権利を自分の武力で守り、侵害者を自己の決定で処罰することが許されるからである。しかし、独占的保護協会が強制的に、それら独立人たちを協会に併合することは正当化されない。保護協会が保護と処罰を行う権利と独立人のそれは同等で、しかも保護協会が協会以外の人間を処罰するのと同じ原理で、独立人は自分に危害を加えようとする保護協会会員を処罰できるからである。このような場合、保護協会が会員を守るため独立人による処罰を禁じようとするならば、独立人が持つ自衛の権利を禁止する代わりに、保護協会は凍結された権利に見合うだけの賠償を支払わなければならないとノージックは述べる。なぜならば、保護協会の会員に対する独立人の処罰を、(たとえ会員による自由と権利の侵害が実際に行われていなくても)賠償することなく禁じた場合、独立人の持つ権利が著しく損なわれるからである(Nozick, 81)。ノージックはこの賠償のメカニズムを代償の原則と呼ぶ。他人に危害を加えることになる行動が安全の為に禁止され、その人物の権利が欠損した場合、この原則は適用される。またこの原則は、保護協会から進んで「保護を購入したことによって」生じる不利益にも適用される(Nozick, 113)。このようにして、独立人が処罰の権利を凍結させる代わりに賠償を受けることによって、保護と処罰の権力は独占的保護協会により完全に独占され、独立人はいまだに存在するものの、超最小国家を形成することになる。ノージックは、この独占形成は、元来独占を目的としたものではないことを強調する(Nozick, 108)。独占を目的として保護協会が超最小国家になるわけではないため、誰の権利も侵害されていないし、万が一独立人の権利が凍結された場合でも、その対価が弁償されているからである。

最小国家の誕生

そして、超最小国家から最小国家への移行も、権利の侵害なく行われる。自分を自分で守るよりも、組織的に守られるほうが遥かに効率が良く安全なため、独立人は次第に超最小国家に加入するようになり、「普遍的な参加にほぼ近付く」(Nozick, 113)。ノージックによれば、この時点で特定の範囲に住む全ての人の権利と自由が保護され、国家への自発的加入が普遍的なものになった時、超最小国家は最小国家に最後の変貌を遂げる。そして、この過程は誰の権利も侵害していない為、道徳的に正当であるとする。

所有の理論

ノージックによれば、最小国家形成の後、この政府がさらに拡張し、人の権利と自由を侵害することはリバータリアンの道徳的観点から許されないという。なぜならば、最小国家は人々の所有若しくは資産に対しては何の権利もなく、よって国家が国民の所有を我がものにすることは、たとえそれが富の配分を目的としたものでも権利と自由の侵害に値するからである。ノージックはこれを所有の理論と呼ぶ。所有の理論は以下の三つの前提からなる。それは

  1. 正当な手法をもって誰かが所有を獲得したならば、その所有はその人のものである。
  2. ある人物が、所有の正当な所持者から自発的にそれを譲り受けた場合、その所有はその人のものである。
  3. 原則1と2に沿わない限り、誰もその物を所有する権利がない

である(Nozick, 151)。よって、国家が正当な財産の配分を行う為には、「配分されようとしている全ての物が万人の所有でなければならない」(Nozick, 151)。そうでなければ、国家による富の再配分はあくまでも、それぞれの所有の所有者が個別の判断の結果、自発的に譲り渡すものの合計でなければならない。それ以外のケースでは、富の再配分はいかなる場合でも許されないとするのが、リバータリアニズムである。

ノージックのロジックエラー

さて、この章の前半では二つの自由を包括的に論じ、後半ではリバータリアニズムの根本的な議論を説明した。リバータリアニズムを論じたのは言うまでもなく、筆者が肯定的自由よりも否定的自由に説得力を感じるからに他ならない。しかし、ノージックの論文は概して大きな問題を至る所に抱えており、彼自身がリバータリアニズムの生みの親の一人であることから、この思想そのものに限界があることを示している。一旦大きな権力を手にした保護協会が、権力のさらなる拡大を目指し、結果的に会員以外の人間の権利と自由を踏みにじることも大いに考えられるからである。そして、一つの人間社会が全体として肯定的自由か否定的自由のどちらかを選ばなければならない、ということは現実的にはありえない。しかし、実際は一個人が投票という形で、自らが気付かない間にどちらかを選択している為、少なくとも肯定的自由と否定的自由がどういったものかは理解しておかなければならない。また、我々は自由主義そのものが欧米世界の歴史の産物であることを理解しなければならない。特に、リバータリアニズムがアメリカの、アメリカによる、アメリカの為の政治思想であることを理解せずして否定的自由を無条件に信奉するのは極めて危険である

自由主義が一体どういうものか、最低限のものは説明したつもりである。そして、筆者も自由主義を支持しても根本から否定するつもりは毛頭ない。しかし、現に自由主義、特に否定的自由に対する批判は強く存在する。その最たるものが、自由主義は人間間のつながりを個人主義によって毒し、お互いの関係を希薄にする、というものである。この批判は、最近になって流行だした共同体主義の主張である。

次章では、共同体主義の大家であるアラスデア・マッキンタイアーの議論を紹介する。その上で、筆者は自由主義の弁護を行う。誰もが自由に行動できる否定的自由社会でも、従来の日本の道徳は生き残り、栄え、個人の行動は古来の倫理観に沿った形で(誰の権利と自由を侵害することなく)制限できる。