コンストラクティヴィズムとは、「我々が住む世界は、我々が我々の望むように見ているために作り出された幻想に過ぎない」という考え方です。パッと見、何を言っているのか分からないところがあり、一種の禅問答のようにも聞こえます。

要するにこれを国際関係論に応用したものがコンストラクティヴィズムですが、上記の文が何を意味しているのかは、コンストラクティヴィズムを解体してみれば少しずつ分かってくるはずです。

マトリックスな世界

コンストラクティヴィズムは、簡単に言えば映画「マトリックス」のようなものです。主人公ネオは世界を自由に作り替えることの出来る人間でしたが、要はアレです。

私は序章で、国際システムが弱肉強食のルールによって支配されていると書きました。これは一体どうしてかと、コンストラクティヴィズムは疑問を投げかけます。

そもそも、考えてみて下さい。国際政治はなぜ弱肉強食なのか。それは国家同士がお互いを信用していないからだというのは説明しました。それでは、国家同士はなぜお互いを信用しないのでしょうか?それは国家がこの世界を弱肉強食だと考えているからだ、とコンストラクティヴィストは答えます。

つまり、コンストラクティヴィズムにとって、世界が弱肉強食なのはこの世に存在するあらゆる国家が、この世界を弱肉強食だと信じ込んでいるからに他ならないのです。この世が弱肉強食だと信じ込んでいるから、実際に弱肉強食の世界が実現しているというわけです。国際関係の無政府状態も、弱肉強食も、国家同士の戦争も、すべては我々自身が作り上げてしまった世界の姿に過ぎないというのが、コンストラクティヴィズムの主な主張です。

コンストラクティヴィズムに、主観的真実は存在しません。つまり、我々が見ている物はすべて、我々が見たいと思っている世界が投影されているに過ぎないのです。しかし、それはあることを示唆します。もし我々が世界認識を作り替えたら、我々が望む通りの世界が出来上がるのではないか、、、ということを。

国家が、この世界が弱肉強食だと思い込んでいるのは何故なのか?これは、冒頭で語った通りに国家がお互いを信用していないからです。それでは、国家の「他の国は信用できない」という共同幻想もまた創造の産物ではないのか、そしてそれは人工的に作り替える事が出来るのではないか?

相互認識を「人工的に」作り替える

コンストラクティヴィズムは、相互認識を改めるため国家がするべき事を提示します。「対話をしろ」と。世界中で行われている多国間対話とか、首脳会談とか、政策レベルに影響を及ぼす人物が他の国と直接対話を行い、相互認識を改める作業をコンストラクティヴィズムは非常に重視します。他の学派はそれらを政策協議や意見交換の場としてしか見ませんが、そういった活動で信頼がどれくらい根付くかを、国家の行動を決定付ける非常に重要な変数として考えます

また、文化、アイデンティティー、イデオロギー、宗教や国民性も重要な変数であり、そうした相互不信を助長すると思われるものに戦争の原因を求めます。その場合は早期の信頼醸成を勧め、時にはそれら変数そのものを人工的に作り替える必要性を訴えます。例えば、日本の首相の靖国参拝は禁じるべき、というように。

実は、日本の身近にコンストラクティヴィズムを実践している国際団体があります。ASEANです。ASEANというのは面白い団体で、これは自由制度論に則ったものではありません。なぜならば、制度を形作るルールが存在しないからです。専門的には、制度(Institution)というものは国連憲章のような「調印した国家が従わなければならないルールのセット」を指すのですが、ASEANにはそれがありません。また、ルールがないのでASEANは組織ですらありません。では一体なんなんだと言いますと、団体としか言い様がないのです。

一応、ASEANには「ASEANコンコード」という最も重要な調印文書があるのですが、これはただ会合で首脳たちが話し合った事をまとめただけで、従わなければ制裁を受けるようなルールではありません。ただ淡々と会合を繰り返し、最重要な議題は避け、出来るだけ雑談に終止するように心がける団体がASEANです。実際、私の恩師の口癖は「私は何回も見たよ。ASEANの会合で各国の閣僚たちがすることといったらゴルフに興じ、休憩時間にドリアンを食べながら家族の近況報告をするだけだ」というものでした。つまり、ASEANの存在意義は信頼醸成にあるということです。

もちろん、私はそう考えていません。ASEANによる信頼醸成は、あくまでも当時のパワーポリティクスを生き残るための道具にしか過ぎませんでした。しかしながら、私はコンストラクティヴィズムの「認識論」を利用して自説を組み立てていることをあらかじめ白状しておきます。

2020年現在の注記

ASEANは2008年のASEAN憲章発効、2015年のASEAN共同体設立を経てもなお、対話を行う団体であり続けています。いい加減組織化したら?と方々から突っ込まれつつ、未だに我が道を征く。私は大好きです、ASEAN。