(2002年9月21日の政治日記より抜粋)

冷戦まっただ中の日本の外交戦略は、非常にシンプルで、エレガントで、現実主義的なものでした。軍事的に対立しても到底かなわないのでアメリカの核の傘に入り、経済発展を進めることによって軍事力ではなく経済力によるアジアの覇権と化す、そういった明確な国益観がございました。しかし、冷戦が終了する頃、運悪く全く別の世代が日本外交の主役となり、この国は国益に対しての方向性を完全に見失ってしまいました。それは、いつまでも現実的に考えることの出来ない団塊の世代であり、彼らが外交の柱として採用した国際関係の理論がコンストラクティヴィズムと呼ばれるものだったからに他なりません。

コンストラクティヴィズムとは、要するに国家同士が対話を通じてお互いの認識を深めよう、理解しよう、そうすれば世界はきっと平和になれると言う、まあごもっともな話なんですがあまりにも確実性に乏しい理論でございます。日本が外交の重点を経済支援から国連、APECなどの多国間対話に移し、地域間協調を深めて来たのがその証拠でございます。ODAなどは元来日本の持つ唯一絶対の外交ツールであり、今までは「てめえらに経済支援してるんだから言うこと聞け」と、まさに大国の鏡と呼べるようなことを日本はしてまいりました。しかし、冷戦終了を境に、日本はアメリカからの支配を抜け出すチャンスを得た。ですが、日本はドイツのようにアメリカにあえて正面からたてつく国になることを選択せず、アメリカ以外の国とも会話を重ねていけばなんとかなるという淡い期待を胸に、多国間協調という、ごもっともなんだけれども国際政治の力学的にはまったくもって役に立たない道へ逃げてしまったのでございます。

先ほど申し上げましたように、コンストラクティヴィズムは相互認識の変革を目指す学派でございまして、よって対話の際にタブーとされるのが、高度に政治的で最も重要な問題を議題にする、と言うことであります。最も重要な議題、例えば核開発とか、軍拡とか、ODAが実際にはどのように使われているかなどを話しはじめたら最期、対話の足並みが崩れてしまい、お互いを理解しあうことが出来なくなるからです。ですから、現在の日本外務省は、「相手の神経を逆撫でしない」ことに注意を払っているのでございます。弱腰外交と呼ばれるものの原点、もとい諸悪の根源はここにあります。

さて、このように外務省が絶大な信頼を置いているコンストラクティヴィズムですが、他の国がわが国に持つ認識なんぞ、国際関係のパワーバランスが崩れれば最後、まったく変わってしまいます。例えば、「信頼醸成」というものが多国間協調の大きな目的の一つなのですが、その信頼が未来永劫続き、絶対的に信用できるものかと言えば決してそうではないのでございます。

それはなぜかといいますと、国家を構成する国民のアイデンティティというもの、つまり国民による外界の認識、ならびに国民が国民自身をどのように認識するかは、外的な要因が大きく作用しているからに他なりません。台湾の民主化運動が非常にいい例で、この国の民主化運動はアメリカによる安保条約の一方的な破棄、そしてそれによりかつてなく高まった中共への恐れと連動し、民主化運動は民族自決運動へ大きな変貌を遂げました。つまり、中国に飲み込まれる可能性に対し、台湾人は自分を台湾人であると主張し、台湾ナショナリズムを組織的に育むことによって、それまでにあった中華民国人という国民性が薄れ、台湾人という新たな国家的アイデンティティが生まれるにいたったのでございます。

このように、国民というものは作られ、そして外的要因に左右され作り替えられるものであります。日本人が今のような、危機管理の「き」の字も知らぬへっぽこ国民に成り下がったのは、間違いなく第二次大戦での敗戦と、冷戦下でアメリカの下僕とならざるを得なかったという、特殊な事情があったからに他なりません。よって、将来の外的要因次第で、平和を愛する日本国民もまた作り替えられてしまう可能性は決して否定できないのでございます。コンストラクティヴィズム最大の欠点は、このような国民性、つまりその国の文化のあり方や外界の認識などは、人間の手によって作為的に作り替えられると考えるところにあります。現在の日本人のアイデンティティはアメリカによって人為的に作られたと考えることができますが、それもまた、アメリカが極東アジアを極度の混乱状態に導くことで意図的に作り替えることができます。しかし、世界の大国はアメリカだけではないので、日本人がアメリカの予期しない新しい国民性を獲得することは決して否定できません。

話を日本の外交に戻しましょう。アメリカはコンストラクティヴィズム理論を非常に効果的に、そして現実的に実践することによって、自国の戦略のための道具として活用しております。そこには、国家同士の認識を変革することによって世界の平和を達成しようという楽観的な発想はありません。

極論すれば、例えば今では台湾という国は親日的だと一般に理解されており、そして実際に親日的でございます。しかし、そのような国民性が、条件が揃えば極端な反日へ傾く可能性は実際に存在しており、誰として否定できないのでございます。繰り返しますが、現実政治の醍醐味は無常にあります。この世に存在するものに何一つ、変化しないものはありません。