ここではアラスデア・マッキンタイアの著作『After Virtue(邦題:美徳なき時代)』の中で提示された、自由主義批判の主流派であるコミュニタリアニズムを紹介する。コミュニタリアニズムは、「ハーバード白熱教室」知られるマイケル・サンデルにより日本でも一躍有名になった。日本古来の共同体思想(=ムラ社会)を否定しないことから、「西洋的自由社会」のアンチテーゼとして受け入れられた側面もあろう。コミュニタリアニズムは論者によって論旨が異なるため、政治体制・政策の具体的なあるべき姿を技術的に提示するものではなく、共同体の価値基準を尊重するというフレームワーク論と理解すれば良い。サンデルのコミュニタリアニズムは「民主党支持者」という(皮肉にも)個人的属性が多分に反映されているためここでは扱わず、マッキンタイアによる論考からコミュニタリアンのロジックにフォーカスする(もっとも、マッキンタイアはギリシャ哲学の学徒を自認しており、コミュニタリアンと呼ばれることを否定している)。
目次
概論
コミュニタリアニズムは、自由主義は個人主義の蔓延を副作用としてもたらしたため、我々は自由主義前の世界、集団が特定の価値観を共有する共同体を理想とすべきと主張する。肯定的自由と否定的自由はいずれも「自由に裏づけされた選択」を良きものとするが、コミュニタリアニズムにとっての選択は共同体の価値観によってなされ、その集団の「正義」は共同体が持つ「徳」という価値基準によって定義される。従って、政治体制や政策の良し悪しは、それが共同体の「公共善」に沿うかどうかにより評価されるため、コミュニタリアニズムは(本質的には)政策のあるべき姿を示す政治哲学ではない。サンデルは一歩踏み込んで「道徳規範に基づくあるべき政策」を例示するが、それらは彼自身が認識する「徳」に沿うものであり、政治哲学としてのコミュニタリアニズムの限界を自ら示している。また、異なる価値規範を持つ他の共同体にどう接すべきかは、基本的に対話と競争を促しており、国家間の衝突の原因を文明や文化に求めるものと理解して差し支えない。90年代から流行ったアイデンティティ・ポリティクスについても、共同体の再構築という側面から説明されるだろう。
「美徳なき時代」を読む
マッキンタイアの主張の核心は、自由主義が「個」を重視しすぎたため、現代社会は「非常に大部分の道徳の理論的・実践的な理解を失ってしまった」という点にある。例えば古代ギリシャのアリストテレス的伝統であったり、儒教における礼であり、日本での主君に対する忠義などが挙げられるが、これらは、18世紀欧州の啓蒙運動とそれに端を発した自由主義の世界的普及により改変された。従って、マッキンタイアは、現在かろうじて残っている「道徳の外観」を元に、共同体の道徳言語の復元とその文脈の回復、そして自由主義によって破壊された共同体への回帰が必要としている。
失われた道徳言語ー社会と個人の物語
我々は道徳理解の混沌とした現代に生きるが、道徳の文脈を失った証左として、道徳・価値についての言葉は往々にして社会問題の議論で多用される、という現象がある。道徳についての共通認識が無いため、道徳的言語は「意見の相違」を表現するために使われるのである。マッキンタイアはこれを極めて感情的な行為と指摘しており、道徳的な判断は個人の感情や態度を表すに過ぎないとする情動主義を批判している。我々はもはや理性に基づいた道徳的な発言をしない。マッキンタイアによれば、情動主義によって特徴づけられる現代社会は、道徳に合理的な正統性を与えようとした啓蒙運動の失敗に対する反動にすぎないのである。
この主張は深堀りが必要だろう。アリストテレスの学徒を自認するマッキンタイアは、共同体における個人の役割を説明するため、しばしば演劇やドラマでの演者の役割に言及する。その中でも、日本の能を事例として挙げており、能演劇の伝統的な「型」のように、古代の共同体では、人間であるということは、「家族の一員、市民、兵士、哲学者、神のしもべなど、それぞれの役割を果たすこと」(MacIntyre 56)とされていた。いわば、人間の本質(人生の目的と言い換えても良い)は、その人物の社会におけるアイデンティティが規定するものであり、価値判断と不可分であった。こうした伝統に根差す道徳的言語は、啓蒙運動が個人の自律性を主張し、共同体における人生の目的から個人を隔離したため、崩壊したのである。
啓蒙運動の失敗と公共善の喪失
人間の自由を実現するための啓蒙運動の失敗によって、我々の道徳はその文脈を失った。我々が元々持っていた価値基準は、「最大多数の最大幸福に資するものかどうか」といった功利主義的価値観や、自由主義の観点から「個人の選択に役立つものかどうか」といった近代の価値観に置き換えられたが、その一方で、古来の美徳は理性的・理論的解釈を与えられぬまま、置き去りにされたのである。こうして、道徳判断が個人の感情や態度の反映に過ぎなくなったことで、道徳についての議論は合意に達することが無くなり、「公共善」が達成される社会は消失した、というのがコミュニタリアニズムの主張である。
マッキンタイアによれば、人間と社会が多かれ少なかれ同一であった古代社会では、人間の自律性は受け入れられなかった。個人が社会に於ける「義務」を果たす伝統的な社会では、何をすべきかという道徳的言語の文脈が共同体に直結しているのである。美徳の定義は各時代・各社会の歴史的文脈で異なるが、こうした基本原理はホメロスの英雄社会からアリストテレスまで同じとする。すなわち、すべての道徳は常にある程度、社会と結びついており、「すべての特殊性から解放された普遍的なものを目指す近代の道徳は幻想」(MacIntyre 119)なのである。例えば、近代自由主義社会での「権利」という単語は、古今東西の伝統的な言語の中で、同様の文脈を持つ単語は存在しなかったとマッキンタイアは指摘する。こうした共同幻想に社会が委ねられていることを指して、我々は道徳的暗黒時代に生きている、という主張だ。
美徳の本質
当然、西洋の伝統における美徳は東洋のそれとは異なる。しかし、マッキンタイアは、美徳には一つの核となる概念があり得ると指摘している。マッキンタイアによれば、美徳とは、私たちが実践を通じて「善」を達成することを可能にするものであり、その欠如によって、効果的にそのような「善」を達成することができなくなるという、後天的な人間の質である。ここで、実践とは「社会的に確立された協同的な人間活動」(MacIntyre 175)であり、「善」とはその達成が実践に参加する共同体全体のための公共善と定義されている。更に、美徳は秀逸な真実性、正義感、勇気であり、実践を持続させる原動力とする。このため、洋の東西を問わず、実践はどのような場所でも行われるため、異なる道徳規範を持つ各社会にも「徳」の核となる定義は問題なく適用することができるのである。
マッキンタイアは、我々が自らの道徳的立場の首尾一貫した合理的な説明を可能とするため、アリストテレスの伝統を復元し個人の選択を重視する自由主義を放棄すべきであると述べ、「美徳なき時代」を締め括っている。マッキンタイアはその上で、「この段階で重要なのは、すでに私たちが迎えている新たな暗黒時代に於いても、礼節と知的・道徳的生活が維持されるような地域共同体の構築である」(MacIntyre 245)と主張する。この思想がコミュニタリアニズム(共同体主義)と呼ばれ、マッキンタイアがその提唱者と呼ばれる所以である。
以上がコミュニタリアニズムの主要な骨格だが、格調高い筆致で綴られた「美徳なき時代」の全てを紹介するには到底至らない。ノージックの「アナーキー・国家・ユートピア」がじつにアメリカ的なポップコーンとすれば、マッキンタイアの「美徳なき時代」は高級フレンチのフルコースに例えられよう。古代ギリシャの道徳観を紐解きつつ、個人と社会との関わりを物語的同一性から語り、社会科学の予測力まで批判する網羅的・野心的な大作であり、その主張の是非は兎も角、政治哲学に関心のある者は全文を読み通すべきだろう。
コミュニタリアニズムへの批判
マッキンタイアの自由主義に対する挑戦は、当然の如く各方面から熾烈な反撃をもって迎えられた。主な批判を幾つか挙げると、自由主義の伝統に生きるアメリカ合衆国国民は、個人主義の文脈から社会と個人の同一性を確立しており、マッキンタイアの自由主義批判は一面的ではないかといったものや、普遍的価値感を否定することは違う伝統・文化が持つ異なる正義概念の衝突や、文明の優劣という絶対評価を容認することにつながるのではないか、といったものがある。
上位概念としての自由意志
次の議論に移る前に、コミュニタリアンが主張するように自由と権利が共同幻想であるかどうか、人間の本質である「自由意志」を踏まえた批判を私からも指摘しておこう。バーリン卿が説明したように、他者との接触を拒否して孤立することを選択する人もいるかもしれないが、それは自由主義に直接起因するものではなく、この特定の個人の決定に起因するものである。また、古代アテネでも、人は共同体の道徳を踏まえた選択を実践するとは限らない。自由社会で人は自由を敢えて実践しない選択が与えられているのと同様に、ある特定の美徳が信じられている共同体でも人は美徳を実践しない選択が可能である。コミュニタリアニズムの議論では、その人物は社会での役割を放棄したということになるが、要すれば転職や転居にほかならない。現代の我々の断片的な歴史理解をもって、個人の自律性があたかも存在しなかったかように語るのは無理があろう。すなわち、問題は個人の意思決定に絞られ、いつでも、どのコミュニティでも、職業選択が不可能な奴隷以外、人々は意思決定をする権利を持っている、ということになる。このような自由意志は歴史的にも伝統的にも人間の構成要素であり、現代において「権利」や「自由」といった名称を付与されたからといって、「そのような権利は存在せず、それを信じることは魔女やユニコーンを信じることと一体である」(MacIntyre 67)ということにはならないのだ。
コミュニタリアニズムの現実主義的解釈
予め白状すると、私はマッキンタイアの主張に部分的であるが賛同している。それは、国際システムに於ける国家の誕生と再生に、国民のアイデンティティが果たす役割を認めているからだ。しかし、国家間の衝突はそれぞれの伝統が持つ「正義」の正しさではなく、最終的にはパワーによって解決される。「正義」の優劣がその素晴らしさではなく力によって決まる以上、自由主義を破棄せよという主張は、世界各文明の伝統を力で破壊し尽くした西洋の植民地支配まで時間を遡り修正するほか無いし、この観点からもコミュニタリアニズムは偽善の謗りを免れない。西洋がすべからくマッキンタイアの敬愛するアリストテレス的な美徳社会に立ち戻ったとして、仮に、西洋社会以上に自己中心的な中華文明が世界覇権を握り儒教思想が席巻する日が来たら、コミュニタリアンはそれを受け入れるのか甚だ疑問であり、そのような事態を想定してもいないのだろう。